出雲大社は怨霊の神社?

出雲大社は怨霊の神社?


はじめに

 出雲大社は怨霊を鎮める神社である、という説が出回っています。以前からある話ですが、一般に大きく広まったのは井沢元彦氏の「逆説の日本史」によるものだと思われます。
 しかし、本当にそうなのか、その主張を詳しく見ていきます。なお、筆者は井沢元彦氏のファンでもあり、ファンであるが故の指摘と思って頂ければ幸いです。
 「出雲大社は大怨霊オオクニヌシを封じ込めた神殿である」(逆説の日本史1古代黎明編、小学館)というのが井沢氏の結論ですが、その論拠としてあげられているのは

 ・出雲大社の本殿が日本で一番大きな建物であった
 ・神座が横を向いている
 ・五人の客神はヤマト系の神で、オオクニヌシを監視している
 ・しめ縄が普通の神社と反対の張り方をしている
 ・四拍手である
 ・出雲の「雲」は死の象徴である
 ・亡ぼしたオオクニヌシを丁重に祀らなければならなかった。三輪山がその例である

出雲大社の本殿が日本で一番大きな建物であった

 平安時代の口遊(くちずさみ)という本に、雲太、和二、京三という言葉があります。これは日本で最も高い建物の順番であり、一位が出雲大社、二位が奈良の東大寺大仏殿、三位が京都の平安京大極殿ということです。本当に出雲大社が一番高かったのか諸説ありますが、その当時はそう信じられていた、という井沢氏の話には納得できるものがあります。そして、出雲大社が一番高いのは「わ」の精神を表すものだから、という推論もかなり独自な視点で面白いと思います。
 ですが、なぜか井沢氏は神話のような平和な国譲りが行われたのではなく、「オオクニヌシは戦って敗け自殺したか、あるいは処刑されたのではないか」(逆説の日本史1)ということにこだわられているようです。ですが、私は平和に譲ったから「わ」の精神を表すものとして出雲大社が格別に大きなものに作られたのだと考えています。

 出雲大社の本殿というのは、神社の本殿の中で異例なもので、皇祖神天照大御神をお祀りする神宮(伊勢神宮)や藤原氏の氏神春日大社の本殿などと比べてかなり大きなものです。これについて国学院大学の椙山林継教授は「古代出雲大社の祭儀と神殿」(学生社)で述べられていることをまとめますと、「他の神社、例えば藤原氏などは春日大社の本殿をとびきり大きなものに造る力があった。でも作らなかった。それは自分たちの神社の本殿は別に小さいもので構わない、という認識があったのだろう。出雲大社については、国を譲られ、その地の本殿は高い建物だったのを見た大和政権が、国家の祀りとして立てるのだから、威信をかけて、他ではまねのできないようなとびきり大きなものを建てようとしたのではないか」という話をされています。出雲国では出雲大社と同じ造りの大社造で、比較的大型の本殿を持つ神社が多く、推論としては非常にうなずける話です。

神座が横を向いている

 出雲大社の「神座が横を向いている」ということについて考えましょう。出雲大社の本殿内は逆”コ”の字のようになっていて、大国主神の神座は正面から見ると横向き(左向き)になっています。これを井沢氏は参拝者に拝ませたくないからだ、と主張され、「こんな形で神を祀っているのは、世界広しといえどもおそらく出雲大社だけではないか。」(逆説の日本史1)と書かれています。出雲には同じような大社造りの神社が多数あるという話はされていますが、実は出雲以外にも神座が横向きの神社があるのです。
 それはなんと「鹿島神宮」です。
 鹿島神宮と言えば、国譲りで天孫の使いとして剣の上に座って、大国主神に国を譲るよう交渉したあの勇猛な神、建御雷神(タケミカヅチ)が祀られている神社です。その鹿島神宮は本殿が北向きに造られて、神座が横を向いています。
 井沢氏の主張は「大国主神を拝ませないために神座が横向きだ」ということですが、とすると天孫側からすると大功臣である建御雷神も拝ませたくない、ということにならないでしょうか。

 では、なぜ出雲大社の神座は横を向いているのか、ということですが、はっきりこうである、という理由はもちろん伝わっておりませんので、あくまでの推論になり、諸説ありますが、一番有力な説は、出雲大社の本殿は古代の住居を現したもので、正方形の部屋に仕切りを設けてコの字方にし、入口より一番奥の部屋を上座としたから、というものです。それだけではどうして左向きなのか、等までは説明できませんので、井沢氏も引用している本「出雲大社」(第八十二代出雲国造、出雲大社宮司千家尊統著、学生社)では、西の方を見ているのは海、また北九州との関係があるのではないか、と指摘されています。なお、鹿島神宮の建御雷神の神座も東向き、つまり鹿島灘の方に向いています。何か関係があるのかもしれません。

五人の客神はヤマト系の神で、オオクニヌシを監視している

 次は出雲大社の本殿内で祀られている「五人の客神はヤマト系の神で、監視させている」という主張です。これは前項の話とリンクしていて、大国主神の神座を拝ませないように横向きにして、横の部屋に正面向きに五人の客神を置いて、そちらを拝ませる、またこれらの神は「五人の客神は保安官であり、看守でもある」(逆説の日本史1)というのが井沢氏の主張です。井沢氏は「天之御中主神・高御産巣日神・神産巣日神。この三柱は『古事記』の冒頭に出てくる。つまり大和朝廷の神なのだ。他の二人もそうだ。」(逆説の日本史1)と明快に書かれています。では、その客座の五神とは

 天之御中主神 (アメノミナカヌシの神)
 高御産巣日神 (タカミムスヒの神)
 神産巣日神  (カミムスヒの神)
 宇麻志阿斯詞備比古遅神 (ウマシアシカビヒコヂの神)
 天之常立神  (アメノトコタチの神)

の五柱の神で、井沢氏が書かれたように古事記の最初に出てくる神です。天地開闢の時に、まず最初に成られたのが天之御中主神、次に高御産巣日神、次に神産巣日神で、その後に宇麻志阿斯詞備比古遅神、天之常立神が成られ、この五柱の神は別天つ神(ことあまつかみ)と称される、というお話です。一般的に天津神と国津神を分け、国譲り神話では天孫側が天津神、大国主神側が国津神と区分する人が多いようですが、古事記を見ればわかるのは、別天つ神五神は世の中の最初の神ですから、天津神国津神分離以前の神、双方の祖先ということになります。よって、五柱の神を天津神、天孫側、あるいはヤマト系と限定するのはおかしな話です。

 次に五柱の神を詳しく見ていきますと、まず最初の天之御中主神は、この最初に登場するだけで、これ以降古事記にもその他の神話にも事跡がありません。最後の二柱の神、宇麻志阿斯詞備比古遅神と天之常立神も同様にその後は登場しません。高御産巣日神は天孫降臨の際に天照大御神と共に神々を招集したり、使い神を指名したりしたり、天孫側と関係が深く、この神は井沢氏の言う「ヤマト系」の神にふさわしいかもしれません。問題は神産巣日神です。

 神産巣日神は古事記でその後出てくるのが「大国主神が兄弟達に殺された時に生き返らすのを助けた」「大国主神と共に国造りした少名毘古那神の父神だった」の二つで、また他に登場するのは出雲国風土記においてです。私はあえて「出雲系」と断定はしませんが、出雲と関係が深い神であったのは、間違いないところです。

そこで、整理してあえてどちら側かと分けてみると、

天之御中主神      = 中立
高御産巣日神      = 天孫側と関係深い
神産巣日神       = 出雲側と関係深い
宇麻志阿斯詞備比古遅神 = 中立
天之常立神       = 中立

ということになります。基本的に五柱の神とも祖先ですから、監視役というにはふさわしくない神です。もし、客神が建御雷神など天孫降臨時に遣わされた神であれば、監視役説がかなり説得力を持つと思いますが、これら五柱の神の立場、事跡を詳しく見ていくと、すべてヤマト系の神とは言えず、また、監視役というのには立派すぎる神であることがわかります。

しめ縄が普通の神社と反対の張り方をしている

 一般的に神社は社殿向かって右が上位なので、しめ縄も向かって右から始めて、向かって左を終わりにする、というのが普通ですが、出雲大社はこれが反対で、向かって左は始めになっています。このことについて前述「出雲大社」において、千家尊統宮司は摂社の造り、本殿内の位置などを見ると、どうも出雲大社は向かって左を上位としているようだと記述しています。井沢氏はそれに対して、他の神社と反対である理由の説明になっていない、とし、その理由として、大国主命に死んだと気づかせるためで、「大社は「死の宮殿」であるからこそ、注連縄は「この世の神社と正反対」なのである。」(逆説の日本史1)という推論を立てておられます。

 ですが、実はしめ縄が反対の神社は出雲大社の他にも結構あるのです。例えば大山祇神社(愛媛県)や津島神社(愛知県)などです。
 しめ縄のみに限らず、神社での独自のしきたりや慣習について聞いてみると、
 「どうして、そうやっているのでしょう?」
 「わかりません、昔からそうやってたみたいです。」
という話がよくあります。最初は理由があったのかもしれませんが、長い歴史の中でわからなくなってしまったりするのです。よってこの手の慣習の理由を後世の人間が無理矢理これだ、と断言するのはあまりよろしくないでしょう。もし、本当に出雲大社「だけ」反対ならば、井沢説もわからなくもないですが、他に同様な神社もあるわけですから、少し無理があるようです。

四拍手である

 有名な話ですが、一般の神社の参拝作法は二拝二拍手一拝なのに、出雲大社では二拝四拍手一拝となっています。これについては「どうして「四柏手」なのか。「四」は「シ」であり「死」に通じる、縁起の悪いことこのうえもない。」(逆説の日本史1)と記され、これも大国主命に死を自覚してもらうためにわざと縁起の悪い四拍手にしている、というのが井沢氏の推論です。

 ですが、これも無理があり、出雲大社だけが四拍手ではありません。他には宇佐神宮(大分県)や弥彦神社(新潟県)でも四拍手ですし、神宮(伊勢神宮)でも参拝者はしませんが、八開手という作法があります。

 実は二拍手になったのは明治時代に神社が国家管理に入ってから後、作法を統一していったためにそうなっただけで、それ以前は各神社がばらばらな作法をしていたようです。出雲大社の四拍手の理由もよくわかりません。出雲大社を案内するバスガイドさんは「幸せの「し」だから四拍手です」と言ってますが、もちろん、それも正しいかどうかはわかりません。

出雲の「雲」は死の象徴である

 千家尊統宮司の「出雲大社」では、イズモという言葉について考察し、出雲の「雲」は霊魂や神を表す時に使った言葉ではないか、と言われたのに対して、井沢氏はもっと踏み込んで「雲」イコール「死」の表現である、との主張されています。

 平成二十年の出雲大社ご遷宮での御本殿特別公開で見られた方も多いとは思いますが、御本殿の天井には「八雲の図」が鮮やかな色で描かれています。七つしかないのになぜ八雲なのか、などと色々と謎を呼ぶものでした。なぜ雲が描かれているのかもわかりませんが、千家尊統宮司は「神がいます所は雲の上、あるいは雲の中、あるいは雲の下でも、人里はるかに隔てた雲居の辺だ、と信じられていたことを示すものだろう」と書かれています。井沢氏はどうしても出雲を「死」と結びつけられたいようですが、私は素直に霊魂や神の現れと受け取る方が自然ではないかと思います。

滅ぼしたオオクニヌシを丁重に祀らなければならなかった。三輪山がその例である

 その丁重に祀る例として、大和三輪山の話を挙げられています。滅ぼしたから丁重に祀るために、大和に大物主(大国主神とほぼ同神、と私も思いますが諸説はあります)を祀ったのだ。中国に似たような例がある、とされています。

 ここで注目すべきなのは「出雲国造神賀詞」(いずものくにのみやつこかむよごと)の記述です。「出雲国造神賀詞」は出雲国造が新しく就任した際に、はるばる京都の朝廷に参り奏聞する祝いの詞で、史書では奈良時代中期から平安時代前期まで行われたという記述があります。この中で、大穴持命(大国主神)は皇孫の守護神として祀られている、という話が出てきます。

 「そこで大穴持命の申し上げられますには、この大倭の国こそ、皇孫命のお鎮まり遊ばさるべき国であると申されて、ご自分の和魂を八咫鏡に倚り憑かせて、これを御霊代として、倭の大物主なる櫛ミカ玉命と御名を唱えて、大御和の社に鎮め坐ざせ、御自分の御子なる阿遅須伎高孫根命の御魂を、葛木の鴨の社に鎮座せしめ、事代主命の御魂を宇奈提に坐させ、賀夜奈流美命の御魂を、飛鳥の社に鎮座せしめて、これらを皇孫命の御身近の守護神として貢りおいて、御身自らは遠い守護神として、八百丹杵築宮に鎮座あらせられました。」(口語訳は『延喜式祝詞教本』、御巫清勇による)

 つまり、大国主神は自分の分身と子供の神たちを都の近くに皇孫の守護神として祀り、自分は出雲大社に鎮座した、という内容です。いや、この頃には怨霊を鎮める神から守護神へ変化してたのだ、という推理もなくはないですが、それにしても、滅ぼした王だけではなく、その子供を都の周りに祀らせるでしょうか。これは大和朝廷も本当に守護神としてみていた、ということでしょう。

 なお、井沢氏も取り上げられた周王朝の話ですが、殷を滅ぼした後に、祭祀が途絶えると祟るので、殷の王族にその祭祀が途絶えないよう続けさせた、ということであり、周王朝の守護神として祀ったわけではありません。

滅ぼされたのに祀られなかった神

 さて、ここまで見てきましたが、改めて井沢氏の主張を確認しましょう。
「いずれにせよ、大和朝廷はオオクニヌシを恐れた。なぜ恐れたかといえば、滅ぼしたからである。それは決して「国譲り」などという「和の精神」によるキレイ事ではなく、もっとドロドロした殺戮だったに違いない。
 だからこそ、大和朝廷はオオクニヌシを丁重に祀らなければならなかった。」(逆説の日本史1)

 しかし、この説の最大の問題は、同じように大和朝廷から滅ぼされたのにも関わらず、丁重どころかまったく祀られていない人物がいることです。

 その人物とは「長髄彦(ながすねひこ)」です。
 長髄彦は大和の国を支配していましたが、神武天皇との戦いに敗れ、結局は殺されてしまいます。実はこの長髄彦を祀っているという神社を聞いたことがありません。小さいところであるのかもしれませんが、大きなものはありませんし、神武天皇以後の神話、史書等で長髄彦の祀りをしている、という記述も一切ありません。

 神話では悪者になっていますが、長髄彦の立場からすると自分が治めていた国に神武天皇が侵攻してきて滅ぼされたわけで、井沢氏の言うオオクニヌシとほぼ同等の立場であり、怨霊理論の対象になってしかるべきでしょう。しかし、一方は守護神としてまで祀られ、一方は何も祭祀されず、うち捨てられたまま、という事実を見ると、大国主神が丁重に祀られているのはその怨霊を鎮めるため、とは思えなくなってきます。

終わりに

 ここまで見てきますと井沢氏の「オオクニヌシ=滅ぼされた=出雲大社は怨霊の神社」説はかなり苦しい推論であることがおわかり頂けたと思います。私は出雲大社と大国主神の異常とも言える厚遇は、やはり平和裏に国譲りがされたことが理由であり、「大国主神=平和に国譲り=出雲大社は国家守護の神社」であるとと考えています。

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<このページの筆者>
 中島隆広 : 出雲大社紫野教会、教会長
昭和46年京都府生まれ。名古屋大学経済学部卒業、会社員の後、パソコン部品のインターネット通販の会社を起業して経営する。会社売却の後、國學院大學神道學専攻科に入学し、神主となる。

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