神道の修行、行法について

神道の修行、行法について

 神道の修行とは

 修行、行、行法などいろいろ言葉があります。仏教から来てる言葉ですが、神道では修行の種類はあまり多くはありません。

 禊

 神道の修行でまず思いつくのが禊ではないでしょうか。滝に打たれるのを想像するかもしれませんが、海や川に入るというのもありますし、用意された池や水風呂に入ったり、水槽に入れた水をかぶる、というやり方もあります。
 神話ではイザナギ尊が黄泉の国から戻られた時に、穢れを落とすために筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原にて禊を行われましたが、これが禊の起源となっています。イザナギ尊が禊をされた場所は不明ですが、神話の文章からすると、川あるいは河口で水の中に入って体を清められた、ということです。
 ですから、神道的には禊の目的は身についた穢れを洗い流してきれいな体になることですが、精神修養的な要素もあります。

 禊するならやっぱり滝で、と思う人も多いでしょう。行場(ぎょうば)としての滝は人工のものがほとんどです。というとがっかりする人がいるかもしれませんが、自然の滝で行うのはかなり危険です。行場として人がこしらえた滝であっても、雨の降った後は大きな石が落ちてきたりしますから、危険があります。自然にしろ人工にしろ、必ずその滝の管理者の指導を受けて入ってください。最近は何でもネットに情報が落ちていますので、勝手に滝に入って自己流でやろうとする人もいるかもしれませんが、本当に危ないですのでやめておきましょう。

 現在神社界で行われている禊では、いきなり滝や川に入るのではなく、その前に鳥船行事などを行います。これは大正時代に稜威会という団体を率いていた川面凡児という人が始めた禊のやり方を受け継いでいます。行事の内容を文字だけで見るとこれは何なのかと不思議に思う人もいるかもしれません。なぜ国常立尊なのか、とかです。しかし、水に入るまたは水を浴びる前に、大声を出して体を動かすということは、大切なことかもしれません。気合いを入れる、体を温めることができますから、特に冬に禊を行う前には必要でしょう。
 禊については、理屈をごちゃごちゃとこねるよりも、とにかくやってみることに超したことはありません。すがすがしい気持ちになります。鳥船に何の意味が、とかそんな理屈はどうでもよくなります。ただ、繰り返しになりますが、禊を行う場合は自己流で行わず、ぜひ指導者についてください。禊体験を行う神社も徐々に増えてきています。

 禊は一年中行えますが、やはり冬が一番厳しく、かつやりがいがあります。大寒(毎年1月20日頃)に行うのを大寒禊といい、いくつかの神社で行っていて一般の人も参加することができるようです。
 出雲大社紫野教会もまた行っておりませんが、今後禊行を行うことを前向きに検討していますので、関心がある方はご連絡ください。

 大祓詞

 大祓詞は、平安時代には六月末日と十二月末日にに行われる大祓の儀式の際に読まれるものでした。これは現在の神社でも行われています。禊と同じく、罪穢れを祓うための神事です。とにかく神道は清浄を重んじているということですが、この大祓詞は仏教、特に密教の影響を受けて、何度も読み上げるとその度に功徳があるとされ、神前で何度も奏上することがありがたいとされました。
 現在の神社界では何度も奏上することに重きは置いていませんが、行として用いることがあります。なぜ行になるかというと、その間正座を行うためです。

 最近は住居も洋風を選ぶ人が多く、正座の機会が少ないため、慣れていない人が多いと思います。大祓詞を10巻(10回)も上げると約30分かかりますが、そうするとかなり足が痛くなります。それに耐えることが修行になります。
 何分くらい正座が持つのかは個人差があります。体重が重い人は不利になります。女性は得意な人が多いようです。ただ、慣れることによって誰でも多少伸ばすことができます。正座のコツは背筋を張って、さらに頭を上に持ち上げられるような感覚で座ることです。反対に言うと、後ろ足、足首におしりをどかんと体重をかけて座る(慣れていないとそうなると思いますが)と、誰でも長く持ちません。だからといって股を浮かせるような感じまで上げてしまうと、これも力が入りすぎて持ちません。正座に慣れて、自分で自然な感じ、力が入っていない感じを見つけてください。また、長い時間正座をしていると足が動かなくなります。この時あわてて立たず、足の指先が返るようになってから立ち上がってください。あわてて立つと怪我をする可能性があります。

 大祓詞が行として良いところは、特別な場所でなくてもよく、特別な道具も必要ありませんから、自宅ですぐに行えるところにあります。神事関連で何か修行的なことがやってみたいという方は、正座しての大祓詞奏上を行ってみてください。出雲大社の神職養成機関である大社国学館では、毎年一度大祓詞百巻奏上を行うそうです。相当足は痛いでしょうが、終了したときの達成感と得られた自信は相当のものでしょう。
 一人でできるのがよいところではありますが、一人で行うのはさみしいところでもあります。これも他の人と一緒にやることによって、お互いにやりきったという満足感が増加します。出雲大社紫野教会でも適宜行っていきます。

 鎮魂行

 奈良県にある石上神宮は神道において大変重要なお社ですが、そこに伝えられてきたというのが鎮魂行です。
 現在、鎮魂という言葉は死者の霊を安らかに鎮めるという意味で使われていることがほとんどですが、ここでの鎮魂は「たましずめ」であり、生きている人間から魂が離れていこうとするのを鎮めるというものです。また、魂振(たまふり)という言葉がありますが、これは魂を振るわせて活性化させるというものです。
 神道の行法は数少ないため貴重なものですが、そんなに知られていないのは、内容が派手なものでなく、強烈な達成感があるというものではない、からなのかもしれません。

 奉書

 仏教では写経が広く行われています。これを横展開して神道では大祓詞を清書して神前に奉納することを行っている神社があるようです。般若心経は約260字ですが、大祓詞は約700字ありますので、三倍弱の分量になります。現状、行っている神社はあまり多くありませんが、今後広まっていく可能性はあります。
 出雲大社教では以前から「神語奉書」というのが行われています。神語は出雲大社に伝えられた唱え詞です。「幸魂奇魂守給幸給」(さきみたまくしみたままもりたまひさきはへたまへ)ですが、これは出雲大社でお仕えされるお祭りの際にも参列者全員で唱えます。三回唱えますの神語三唱と言いますが、この神語を三回、専用の用紙に浄書します。そして出雲大社神楽殿の神前に奉納されます。神語は8文字ですから、三回で24文字、それと名前、住所ですので、文字数は少ないですが、その分精神を集中して書きましょう。
 「神語奉書」については、出雲大社教の分祠、分院、教会、講社にお問い合わせください。浄書会を行っているところもあります。出雲大社紫野教会でももちろんお取り次ぎしています。

 みたまむすびの霊行

 出雲大社教の行をもう一つお話ししますと「みたまむすびの霊行」というものがあります。
 毎年八月初旬に信徒のお祭りである「出雲大社教大祭」が行われます。このお祭りは夜にお仕えされますが、神楽殿での神事の後に行われるのが「みたまむすびの霊行」です。これは出雲大社教管長のおみちびきの元、参列者全員が通常は入れない八足門から中の「おにわ」に入り、御本殿の周りを一周させていただきます。大神さまのお近くを歩きながら、心の中で神語「幸魂奇魂守給幸給」を唱えます。その後、八足門外において、配られた鈴を振ります。この霊行の間は一切しゃべってはいけません。合図の太鼓などはありますが、終始無言で執り行われます。

 神人合一、明鏡止水の境地に導かれ、大神さまに私たちの魂を清新に浄めていただきます。これも実際に体験した人だけがわかる感覚です。
 この「みたまむすびの霊行」「出雲大社教大祭」は一般の方が直接申し込みして参加することができません。お近くの出雲大社教の分祠、分院、教会、講社にお問い合わせください。出雲大社紫野教会からも毎年参列しています。

 なぜ修行をするのか

 さて、修行、お行、行法、錬成などと言葉はいろいろですが、それでは「なぜ修行をするのか」ということを考えなければなりません。仏教ならば解脱のため、修験道ならば霊力を得るために修行するという目的がありますが、神道で考えると、以下のものが挙げられます。

・効果を得る(例えば、清浄になる、健康になるなど)
・精神修養
・達成感を得る、自信を得る
・非日常の体験

 どれも否定されるものではありませんし、また一つだけというわけでもなく、複数の理由があってもおかしくありません。深く考えずに体験だけでもよいとは思いますが、この修行は何なのかを知り、また自分は何を求めているのかを、はっきりとわかっていた方が間違いなくよいでしょう。

・霊的な体験をしてみたい
・霊能力を得る

 中にはこの二つを望む人がいるかもしれませんが、これは注意が必要です。修行によって霊力が得られるとは限りませんし、そのようなこと目的で行っていないためです。霊的な事に関心があって修行したいという人は、神社よりもとにかく霊能者の先生について、その先生の指示に従った方がいいでしょう。

 一番厳しい修行

 この世の中で一番厳しい修行は、と考えたことがあります。命に関わるような危険なものもありますが、それよりも「日常を修行とする」ということがもっともつらいのではないかと思います。
 神道にかかわらず修行というものを考えてみると、非日常である、ということが重要な要素の一つであることは否定できません。例えば静かお寺で写経すると心が洗われるし、達成感もあるわ、と感じます。滝行をするととてもすがすがしい気持ちになります。しかし、これが毎日であったならどうでしょうか。同じような気持ちではなく、義務感の方が強くなってしまいます。

 自分の人生すべてを一種の修行と考えて、「神道に沿った生き方」を毎日行うこと、これが神道の信徒には必要なことではないかと思います。しかし、これは本当につらいものです。日常が修行ですから、逃げ道はありません。もちろん気分転換にはなりません。さらに理想を語りながら、自分はそれをしないという医者の不養生状態にすぐになりかねません。
 ということもあるのか、行もいいけど人生を修行にしましょう、と言ってもあまり受けがよくないようです。

 やってみましょう

 行については、とにかくやってみないことには何もわかりません。恐れずにぜひ、始めて下さい。必ず得られるものがあります。


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<このページの筆者>
 中島隆広 : 出雲大社紫野教会、教会長
昭和46年京都府生まれ。名古屋大学経済学部卒業、会社員の後、パソコン部品のインターネット通販の会社を起業して経営する。会社売却の後、國學院大學神道學専攻科に入学し、神主となる。
・ツイッター@nkjm_tkhr

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