神道における「人生の目的」とは

神道における「人生の目的」とは

 人間は何のために生きているのだろう、とは誰しも一度は考えることだろうと思います。ただ、正解というものがあるわけでなく、いろんな考え方があるでしょう。世界にはたくさんの宗教があります。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教のように創造主が人間を作った、と考えるタイプの宗教の場合は、人間の意思や希望はどうでもよく、何よりも創造主の意図が問題になるでしょう。仏教やヒンドゥー教のような輪廻転生があると考える宗教もそれ特有の理由があるでしょう。
 それでは、神道においては「人生の目的」はどうなるのでしょうか。そのためにはこの世界を見てみることが必要になります。

 「自分たちの子孫を増やしていくこと」それが人生の目的

 この世界にはたくさんの生き物がいます。ほ乳類などの動物、鳥や魚、昆虫、さらにさまざまな植物もいますし、ミクロの世界の細菌もいます。これらのすべての生物を見てみると、一つの例外もなく、自分たちの種の保存、自分たちの数をいかに増やすか、ということに努めていることに気がつきます。ずばり彼らが何のために生きているのかというと、子孫を増やすため、それだけに生きていると言って過言ではありません
 ご存じの通り、人間も生物の一つです。ということは人間が生きているのも、自分の子孫を残し、また人間の数を増やしていくことが目的ということになります。これは間違いのない事実です。
 古代の日本人も生産していく力、増やしていく力を尊びました。一番最初にお生まれになった神は天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)ですが、次にお生まれになった二柱の神は高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、神産巣日神(かみむすひのかみ)でした。産霊(むすひ)という字を使うこともありますが、霊を産むということですが、その名の通り「むすひ」とは生成していく力のことだといわれています。つまり生成の神が二番目にお生まれになったわけです。
 さらに神話では有名な話があります。国生みをされて最後に火の神を産んで亡くなられた伊邪那美命(いざなみのみこと)を呼び戻しに、夫である伊邪那岐命(いざなぎのみこと)は黄泉の国へ赴かれます。しかし、黄泉の国での妻の姿を見て伊邪那岐命恐れを成して逃げ出します。伊邪那美命はこれに怒り追いかけます。その時、伊邪那美命が「一日に千人の子どもを殺してやる」と言われたのに対して、伊邪那岐命は「それでは一日千五百の産屋を用意しよう」と答えられた、というお話しです。
 古事記や日本書紀といった神話を見てもわかるように、生み出す力を重要視してきました。神の子孫である人間も同じです。つまり、子孫繁栄を図ること、それが神道においてはもっとも大切な人生の目的となるのです。

 その次は「日本を良くして時代に引き継いでいくこと」

 自然のすべての生き物がそうであるように、神道でも子孫を増やしていくことが、生物が生きている最大の目的となります。しかし、人間は意識を持った動物でもあります。それだけではありません。
 生物にはいろんな個体があるようですが、人間もいろんな人がいます。若いうちに結婚し子供も欲しかったのにできなかった、という夫婦もいます。病気によって結婚が難しくなってしまった、という人もいます。その他に自分には人生で他に何かやりたいことがあったという人もいるでしょう。また、子供が嫌いという人もいます。あるいは家庭のような人間関係を構築するのは向いていないという人もいます。
 それらの人は生きている価値がないのかというと、そんなことはありません。もう一つ、人間には大切な役目があります。それは「この社会をより良くして次世代に引き継いでいく」ということです。自分の血統で残せなくとも、次の世代のために新しいものや良いものを生み出したり、不幸な人を助けたりして人々を幸せにして、より良い社会にしていく、というのは人間にとって非常に大切なことです。
 世界へという話も大事ではありますが、日本人としてはまず自分たちの国日本を良くしていくことが重要です。日本国が非常に良い国になれば他の国も見習っていきます。
 自分の子や孫を残していく人も、ただ子孫を残せばいいというわけではなく、日本を良くすることにも努めるべきですが、残せなかった人は、より日本を良くしていくことを目標にして生きていくべきでしょう。

 人生の目的から逆算して日々何すべきかを考えよう

 「自分たちの子孫を増やしていくこと」
 「日本を良くして次世代に引き継いでいくこと」
 普通に考えれば、当然のことかもしれません。しかし、人間とはおかしなもので、そうだと素直に言えない複雑な状況になったのが現在です。
 個人主義、自己実現、そんな流行に乗せられてるうちに、自分でも何をしているのか、何のため生きているのかわからなくなった人も少なくありません。
 人それぞれですから、私は違うという人がいても構いませんし、反社会的な生き方でもなければどんな生き方をするのも自由です。
 しかし、神道の信徒であるならば、上記の二つの目的を深く考えて、そこからどう生きるべきなのか、自分は今後何を目標として、今何をするべきなのか。これらを考えて生きていく、これが必要なのです。

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